中編 怖イ話

がしゃどくろの方便

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 当麻茜が坂を上っているのは、何となくである。
 気がつけば、両脚は錆びつくように強張っていた。もも、鉛が凝っているかのように張りつめ、硬くなっている。
 そこに十三歳の柔肌の面影はどこにもない。白い皮に浮き出た静脈が青くうねり、疲労を多量に含んだ血液を心臓に運んでいる。
 息を吸う。冷たい。そして、湿っている。季節は十一月。冬を目前に、抜けるような青空がだんだんと白く濁る時期。坂は山の側面にあり、右を見ればびっしりと木が生えていて、陽光を遮っている。少し下には川が流れており、立ち上る冷気が体力を掠め取っていく。
 歩きにくい道だ。足裏に感じるコンクリートの表面は、靴越しにも不恰好であることが分かる。嫌なのは、山の影で道の凹凸が一様に黒く塗りつぶされ、少し見ただけでは分かりにくいということだ。目を凝らさなければ、意識していない出っ張りや窪みに躓く羽目になる。
年月がそうさせたのか、道には大小さまざまな裂け目があった。無数の罅には黒い影が流れており、まるで日の光が腐って濁ったようだ。
 黒ずんだ影の群れは流れ落ち、随分と下って茜の住む町に至る。とても小さな町。自動販売機すらない、集落と形容したほうがいいような場所。
 母は今、何をしているのだろう。祖母の一周忌に訪れた知人の対応に疲れ、横にでもなっているのだろうか。少なくとも、茜が黙って家を出た時、呼び止める声はなかった。
 気付かなかったのか、気にも留めなかったのか。とにかく、母は茜の行先など知らないだろう。こんな坂道、木陰に覆われた暗い道を上っているだなんて、知らないだろう。
 道に足を取られて転んだ。今日で何度目だろうか。膝の皮が僅かに捲れ、赤い鉄臭さが顔を出す。茜は立ち上がると、道路を睨んだ。のっぺりと黒くなった凹凸が、ものもいわず佇んでいる。
 何をしているんだ、私は。茜は溜め息を吐き、道路から目を逸らす。転んだのは自分のせいだ。よしんば悪路のせいだとしても、そこを進もうと考えたのは自分の意志だ。しかも、これといった理由もなしに。
 理由はない。坂を上っているのは何となくだ。家から出て、町をあてもなく歩いていたら、罅だらけの薄暗い坂道を見つけた。そのまま、何となく罅に流れる影を踏んだ。踏んで、踏んで、踏んで、いつのまにか坂を随分上がってしまっていた。
 上がるにつれて、道の状態は更に悪くなるようだった。左側に走る赤さびたガードレールは、過去に衝突事故でもあったのか、大きく捻じれていた。捻じれた分だけ道路と隔たり、坂の脇腹を固める崖のような傾斜が顔を出している。
 ごうごうと、音が聞こえる。下を流れる川の音ではない。川はせせらぎも届かないほど奈落に流れている。これは風だ。道の下から吹き上がり、凹凸と罅と茜を舐めていく透明な流動だ。
 立地がそうさせるのか、風は頻繁に通り抜けた。それも、かなりの強い風が。
 目に見えない空気の塊が体を押す度に、頭の中で空想が生まれる。風に巻かれてガードレールをすり抜け、川へと落ちていく空想。
 死ぬだろうな。
 もう随分と高くまで上ってきてしまったから、ここから足を踏み外せば死ぬだろう。数秒の浮遊感の後で、全身に衝撃が流れ込むだろう。骨という骨は砕け、神経は引き裂かれ、肉は掻き混ぜられるだろう。だって、あの川は石が沢山あるのだし。
 思い出す。坂を上る寸前に見た、川の様相を。澄んだ水底に転がる無数の石を。それらはどういう訳か真っ赤に染まっていた。水深が浅いこともあり、石の色はくっきりと川に浮き出て、血の池のようだった。
 ここから落ちれば、自分もあの血の池の一部だ。体から吹きこぼれる赤が、水を濁らせ、石に染みつく。その度に肉は白くなり、こそげ落ち、骨が露わになっていき――。
 茜はハッと我に帰ると、頭を強く振って、薄暗い恍惚を追い出した。
 死に惹かれるようになったのはいつの頃からだったか。祖母が死んだ時か。あるいは、祖母が倒れた時か。
少なくとも、興味やら好奇心を抱き始めたのは、随分と昔のような気がする。
きっかけは、確か祖母の友人の葬式があった時のことだから、恐らく五歳になってすぐの頃だ。祖母の友人とは、何度か会ったことがある。優しいお婆さんで、会うたびにお菓子をくれた。そんな彼女が亡くなったと聞いても、いまいち理解ができなかった。
死ぬとは一体、何なのか。
今まで存在していた何かが、急に日常から消えてなくなってしまったこと。皺のある目元や口元が嬉しそうに動く様が、そっくりなくなってしまったこと。お菓子をくれる手が見えなくなってしまったこと。実感として分かるのは、それぐらいだった。幼い茜にとっては、それが死だった。
 天国に行ったのよ。いなくなったわけじゃないの。
 母の声が脳裏に浮かぶ。祖母の友人の死から、数日が経った頃の言葉だ。確か、茜が祖母の友人がどこに行ってしまったのか、聞いたからだと思う。
 
天国はね、とてもいいところよ。痛いことも、苦しいこともない。
 
 そのように言ったのは、祖母が死んだ時のことだったか。
 茜は死に惹かれている。苦しみ抜いた祖母を安らがせた、優しい風の如き死に。
 髪が風になびき、顔に纏わりつく。背中が押され、また一歩上る。自分はどこに辿り着くのだろう。路面の黒を視線で辿る。辿って、さらに前を見る。傾斜と蛇行で道は歪み、先を影と角度で覆い隠している。
 何となく、ここまで歩いてきた。だからきっと、風に押されるままに、何となく頂上に至るのだろう。しかし、ではそれからどうするのか。何となく坂道を下り、何となく家へと帰るのか。
 母の待つ、あの家へ。
 祖母のいない、あの家へ。
 ざわざわ、ざわざわ。木々の揺れる音がする。数多の葉が、枝が震える音。谷風に掻き乱される音。がしゃがしゃ、がしゃがしゃ。
音の響きが、脳裏にあるイメージを作り上げた。巨大な肋、脊椎、しゃれこうべ。がしゃがしゃと音を鳴らす骸骨。
茜はそのイメージの名前を知っている。そのイメージが、どうして今沸き起こったのかも。
この骨の怪異が、生きながらにして祖母を奪い去ったのだ。
 木陰が道路に身をくねらせている。黒い揺蕩いはどこまでも続く。光のない、のっぺりとした地面から、がしゃがしゃと髑髏の空想が這いずり出る。
透明な骨を潜りながら、思う。
いっそ、真っ赤な川に落ちようか。
そうすれば、自分も天国に辿り着くのか。祖母のように。
いや、無理だろうな。
それでも、憧憬が満ちていく。目の前にある坂道も影も押しのけて、代わりに死が、天国が、骸骨が、祖母が、意識を占領していく。
その中にぽつりと、老人の顔が浮かんだ。
吃驚して、足を止めた。止めて、既に傾斜が緩くなっていることに気付いた。塗装すらされていない、剥き出しの地面が続いている。木陰が切れて、光が茶色い土や、混ざっている砂を煌めかせる。
その上に、老人が立っていた。
 薄茶色のチノパンツに、白い半袖。足が悪いのか、左手には淡黄色の杖が握られている。
「どうした、お嬢ちゃん。こんなところまで」
 老人は優しくそう言うと、笑みを象った。
 左目が、白く濁っている。
 白内障だろうか。晩年の祖母が患っていたのを覚えている。認知症に罹り、孫である自分のことを忘れてしまった祖母が。
 ああ、この老人は長く、とても長く生きてきたのだ。そして今も、生きている。
 老人の水気のない唇が、また動いた。
「ここから先は、山が深くなる。面白いものがある訳でもなし、引き返したほうがいい。最近は日も短いから。夜になれば、帰り路も分からなくなるぞ」
 穏やかな声で、諭すように言われた。空を見ると、夕暮れとはいかないまでも、太陽はかなり傾いていた。ここで引き返さなければ、家に着く前に夜が来るだろう。そうなれば、帰れなくなるかもしれない。
 別に、良いのだけれども。
 茜が黙っていると、老人はじっと彼女の顔を見た。黒い目と白い目で、何かを探るように。
「……でも、ここまで来るのに疲れただろう。休んでくか」
「え?」
「あそこにあるのがおらの家だ。お茶ぐらいなら出せる」
 老人は自信の背後を指さした。そこにはこじんまりした一軒家があった。長い年月を感じさせる、古びた建物だった。何だか、怪談作品にでも出てきそうな。
 祖母も、よくそんな話を聞かせてくれたな。
茜は老人についていくことにした。例えば、もしも彼が若い男であれば警戒したかもしれない。しかし、相手は枯れ枝を想起させるほどに老いていた。何も起こらないだろうと思った。

家の中は畳張りで、ところどころがささくれ立っていた。しかし、それを除けばよく掃除されていた。埃の類は目立たない。
 通された部屋には仏壇があり、木片のような黒ずんだ位牌が乗っていた。仏間と客室を兼ねているらしい。ひとまず拝んで、机の前に座った。
 出されたお茶は、温かった。口に運び喉を通ると、じんわりとしみ込んで、ほっとした。
「すみません、ありがとうございます。美味しいです、このお茶」
 茜の言葉に、老人は微笑んだ。
「そう言ってもらえると、ありがたい。最近は客も滅多に来らんから、お茶の腕が落ちとらんか心配だったんだ。一人で住んどるから、感想を言ってくれる家族もおらんしなぁ」
「お一人で住まれてるんですか? ずっと?」
「そうだなぁ。親父が死んでからは、ずっとだなぁ」
 老人はそう言って、顔を横に向けた。茜もそれに続く。障子が開いていて、すぐ隣にある縁側が見えた。ガラス戸越しに、外の様子が見える。木々に坂道。彼女たちが立っていた場所。
 ここが、庭なのだろうか。だとすれば、随分と大きな庭だ。建物が一つもなく、代わりに住宅街ぐらいならすっぽりと入りそうな更地が広がっている。
「そういえば、嬢ちゃんは」
 老人が再びこちらを見た。
「どうして、ここに来たんだ。道に迷ったか」
 道に迷ったという訳ではない。だが、目的があってきた訳でもない。何となく進んでいたら、いつの間にか辿り着いたのだ。そう答えると、老人は笑った。
「もしかしたら、呼ばれたんかもしれんなあ。親父に」
「亡くなった、お父様にですか」
「おう。今日は、命日でなぁ。だのに、家にはおら一人だ。爺になった息子一人に拝まれたんじゃ、寂しいだろう」
 もう一度仏壇を見る。あの位牌は、彼の父親のものだったのか。拝んでおいて良かったと思う。
「……私の祖母は、昨日が命日でした。一周忌なんです」
「ああ、そうなのか。いやあ、身内が死ぬというのは、どうにもやれんよなぁ。日々の生活に、穴が開いたようで」
「……そうですね」
 祖母の場合、亡くなる前から穴は開いていた。
数年前に脳出血で倒れ、寝たきりになった彼女は、それまでとは別人のように変わり果てていた。茜のことは忘れてしまっていた上に、怒りっぽくなっていたのだ。体もすっかりやせ衰え、骨と皮だけになっていた。
 正直、怖かった。
 老人が口を開いた。
「どんなお婆さんだったんだ」
「優しかったです。怪談とか、不思議な話なんかも、よく教えてくれて」
 倒れる前の祖母を思い出す。あの頃は楽しかった。幽霊とか妖怪とか、そんなこの世ならざるものの話をたくさん知っていた彼女は、夜になるとよく茜に聞かせてくれた。可愛らしい妖怪に、おどろおどろしい怨霊の話。祖母の口から語られるオカルトは毛色も様々で、聞いていて退屈しなかった。
「……倒れる前の日にも、ある妖怪の話を聞かせてくれました。『がしゃどくろ』っていうんですけど」
「がしゃどくろ?」
 老人が尋ねた。茜は頷いた。
「はい。巨大な骸骨の妖怪です。なんでも、戦争で死んだ人だとか、野垂れ死にした人だとか、そういった人の怨念が集まって、化けて出たものらしいですけど」
 この妖怪の歴史はそこまで古くない。何でも、昭和に創作されたものらしい。そう伝えると、老人は少しだけ考え込み、口を開いた。
「戦争で死んだ、か。近いところだと、太平洋戦争あたりだなあ。……昭和のいつぐらいかによるが、今よりずっと戦時中の記憶が新しかった頃だから」
 その枯れた容貌を見るに、老人もまた戦争を経験した世代のようだった。思うところもあるのだろう。
「……確かに、そんなおどろおどろしい妖怪が造り出されるかもしれんなあ。あれで死んだやつらが、大人しく土の下で眠っているとは思えんもの」
 茜は少し、驚いた。祖母も今の老人と同じようなこと言っていたからだ。
 がしゃどくろの姿形は、歌川国芳の浮世絵に登場するものが基になっている。この時点では、ただの巨大な髑髏だった。それが怨念の集合体という風になったのは、あの惨い戦争の残り香がそうさせたのだ。
 がしゃどくろとは、彼らの死に与えられた意味そのものだ。戦火の恐ろしさを表すための、方便だよ。祖母は、そんなことを言っていた。
 それが、最後の怪談だった。
 もっと他の、心の清らかになるような話であれば、どんなに良かっただろう。茜は思う。
 もしも最後に聞いたものが、可愛らしい妖怪や、涙を誘うような人情味のある幽霊話であれば、今もこうして巨大な髑髏の幻影に、取りつかれることもなかっただろうに。
 坂の下からは風が吹き上げているらしく、ガラス戸をがしゃがしゃと揺らした。
 茜はこのがしゃがしゃという音が、嫌いだった。
 あのがしゃどくろが、祖母を握りつぶしたのだ。
「おらの親父も、戦争に行ってたんだ」
 と、老人は言った。
「そん時、おらはまだ十かそこらだったな。母ちゃんはずっと前に死んどったから、親父が兵隊にとられてる間、親戚の家に住ませてもらっててな。……親父が帰ってくるまでという話だったが、薄々皆分かってたよ。親父は帰ってこんだろうって」
「……そうですか。……じゃあ、お父様は戦争で」
 茜の言葉に、老人は首を横に振った。
「いや、親父は生きて帰ってきたよ。だが」
 彼はもう一度、縁側を見た。
「両手両足がもげてた。南の島で、爆弾に当たったんだと」
 老人の父親は、耳も眼も喉もほとんど機能しなくなっていたらしい。死んだ芋虫のように布団から動かず、時折潰れた声で呻くばかりだったそうだ。
最初は親戚の家で介護をしていたようだが、老人が青年になると二人でこの家に戻ってきたのだという。徐々によそよそしくなる親類に、耐えきれなかったらしい。以来、一人で変わり果てた父親の面倒を見ていたようだ。
 茜は話を聞くにつれ、老人と自分は似ていると思った。生きながらにして、家族が死んだのだ。日常が消えてしまったのだ。
「辛くは、なかったんですか」
 自分は辛かった。あんなにやさしかった祖母が、全く違う異形に成り果てたのだ。
死の間際に痩せこけてしまった彼女は、骸骨のようだった。
その姿は祖母の語った、恐ろしい髑髏に似て。
「辛かったよ」
 彼はしみじみと言った。
「おらの親父はな。戦争が取られるまでは、ここで鍛冶屋をしとったのよ」
 老人は、「あの坂を上る前に、川があったろう」と聞いてきた。茜は頷く。確かに、血の池のような赤い川がった。
「あすこで、製鉄に使う砂鉄を取ってたのよ。山の土砂を川に流して、泥と砂鉄を分離させるんだ。あの川の石が赤いのは、その際に砂鉄がこびりついたからよ」
 もう、それぐらいしか当時の名残はない。老人は寂しげに笑った。
「……この家の周りには職人の家が沢山あってな。そこに住む奴らに指示を出して、立派な刀を作っとった。あの頃は、まだ軍刀の需要なんてのもあったから、仕事もあってよ」
 彼は遠い眼をした。
「……綺麗だったなぁ。炉の炎も、溶けて膨らむケラも、鉄池から立ち上る蒸気も。……全部が、キラキラしてたんだよなぁ」
老人が眠そうな顔をする。思い出に浸っているのだろう。
その表情が、強張った。
「……そんな風に、立派にやっとった親父が、かたわになって帰ってきたんだ。……床ずれが起きんよう、布団の上で体をひっくり返してやる時なんかは、声を抑えて泣くんだよなぁ、親父。それが、辛かった」
 訪問客は、ほとんどなかったという。
昔、ここに空襲があったようで、親戚の家に行っていた老人と、戦争に行っていた父親を除いて、皆死んでしまったそうだ。奇跡的にこの家だけは無事だったものの、それ以外はたたら場も含めて全て焼けてしまったらしい。
「……ここは墓だよ。親父の大切だったもの、全ての墓だ。職人連中も仕事場も、一緒くたに焼け死んで土の下だ。……せめて魂ぐらいは、極楽浄土に行ってくれてればいいが」
「……行けてますよ、きっと。何も悪いことをしてないなら、きっと天国に行けてます」
 だといいなあ、と老人は苦笑して、それから「でも」と続けた。
「この辺の鍛冶屋は、悪いことをしとらんでも極楽にいけんかもしれん。金屋子神様に好かれとるからなぁ」
「かなやごかみさま、ですか?」
 何だろう、それは。心の中で首を傾げていると、「ああ、すまん」と老人は言った。
「分からんよな。金屋子神ってのは、おら達のたたら場の神様だよ。女神様なんだが、これまた変わった神様でなぁ」

 死体を好むのよ、と彼は言った。

「死体、ですか」
 老人は頷くと、説明してくれた。
 曰く、金屋子神とはここら一帯の鍛冶屋に信仰されていた女神様とのことらしい。麻や犬が嫌いで、みかんや藤を好む。
桂が神木らしく、昔はこの家の庭にも生やしていたそうだが、それも空襲で焼けてしまったのだという。
 その他にも色々な特徴があるとのことだが、その中でも目を引くのが、屍を好むという性質であった。
「なんでも、たたらの炉の周りに死体を吊り下げていると、鉄を沸かせてくれるみたいでなあ。流石に親父たちは、そんなことしなかったけど。……でも信仰はしてたから、もしかしたら死んでもなお、彼女に寄り添ってるんかもしれん」
 少なくとも、親父はそうだよ。老人はそう呟き、茶を啜った。
断定するということは、彼の父親は金屋子神を強く信仰していたのだろうか。
疑問に思ったので尋ねると、老人は頷いた。
「信じてたよ。だから、今際にああ言ったんだろう」
「今際に?」
 遺言だろうか。しかし、茜は不思議に思った。老人の話では、彼の父親は戦争で喉をやられ、潰れた声しか出せなかったとのことなのだが。

「金屋子神様に、ご恩返しがしたいとよ」
 
 何だか、嫌な予感がした。
「……それで、お爺さんはどうしたんですか」
 老人は茜に視線を戻した。
「言ったろう。親父は、手も足も動かせねえ。目も耳も聞こえねえ。だからよ。金屋子神様に奉公するには、一人じゃ無理だ」
 死体を好む女神への奉公とは、一体何なのか。茜は容易に想像できた。老人の父が何を言おうとしていたのか。
 あるいは、老人が何を聞いたのか。
 しみじみと、彼は呟いた。
「親父は苦しまなかったよ。幸い、うちにはいい刃物が揃ってたんでな」
 茜は確信した。
この老人は変わり果てた父親を、介護の末に――。
「その時は、もう炉なんてなかったんで、吊るすに吊るせんかった。だからよ、たたら場のあったところで骸を燃やして、骨を埋めた。ちょうど、あの辺だ」
 彼は視線を庭に寄越した。先ほどから、何度もちらちらと見ていた場所である。
 この老人には、何が見えているのだろう。金屋子神に寄りそう、父の姿か。
 あるいは、そう自分に言い聞かせているのか。
「……そろそろ、日も暮れるな」
 老人が呟いた。茜は仏間の中にある時計を見た。午後四時も半ばに来ようとしていた。外を見れば、陽光に橙が混ざり出す頃だった。
「そろそろ、帰りなさい。お嬢ちゃん」
 茜は何も言わず、頷いた。それからもう一度、仏壇を見た。あの黒ずんだ位牌は、本当に木片なのだろうかと思った。

「おらはな」
 外に出て、いよいよ別れるとなった時、老人は口を開いた。
「てっきり、お嬢ちゃんは死にに来たんだと思ったよ」
 茜は心臓が跳ねるのを感じた。実際、彼の言葉は当たらずとも遠からずだった。茜は死ぬために、この坂を上ったのではない。しかし、上る最中に強く死に惹かれていたのだ。
「どうして、そう思うんですか?」
 つとめて冷静に尋ねた。動揺を悟られてはいけないと思った。
 最初に会った時と異なり、茜はこの老人を警戒していた。
 彼は穏やかな顔で微笑んだ。数多の皺がくしゃりと歪み、膨大な影を生む。影の群れは目を落ち窪んだように見せ、頬をこけたように見せた。
 まるで、骸骨のような。
「そういう奴が、多いからさ」
 そういう奴。
 つまりは、死にに来た者か。
「このたたら場はな。どうも、死を呼んでるみたいでよ。地面の下に眠る、鍛冶屋の骨や血肉の燃え滓が、そうさせるのかもしれん」
途端に、足の裏に感じる地面が、全て忌々しいものであるように見えた。茜は思わず、黒いコンクリートに覆われた道まで後ずさった。
そんな彼女の様子を、老人は白い目と黒い目でじっと見ていた。
日の傾いた今、彼の立つ場所にも濃い影が降り注いでいた。
「……お爺さんは」
 込み上げる恐怖を振り払うように、茜は明るい声を出した。少しだけ、上擦る。
「そんな人たちを、今日みたいに呼び止めるんですか。それで、説得するんですか」
「大方はな」
「大方は?」
 老人が歯を剥いて笑った。膿を思わせる、黄ばんだ歯だ。
「十人くれば、九人は帰す。だがよ。たまにな、親父の声が聞こえるのさ」
 金屋子神様に、ご恩返しがしたい。
「そんな時は、夜まで引き留める。そうして、暗くなったら家から出す。あとは放っておくさ。……前に来たトラックの運転手は、ガードレールを突き破って、川に落ちたようだがよ」
 茜は空を見た。オレンジ色が濃く浮き出ているが、そのうち藍色が混ざってくるだろう彩りをしていた。
 私は帰れるのだろうか。彼女はぼんやりとそう思って。
「……貴方のお父様の声は、幻聴ではないですか」
 ぽつりと、呟いた。
「まあ、そう思うのも仕方ねえ。死んだ人間は、声なんて出さないからよ」
「死ぬ前もですよ」
「何?」

「今際の言葉も、お父様は口にしていなかったのではないですか」

 老人の表情が消えた。濁った瞳は腐った卵のよう。丁度、死ぬ間際に祖母が噴いた泡も、あんな色をしていた。
 茜は何かにとりつかれたように、声を上げていた。
「お父様は、爆弾で喉をやられていたんでしょう。潰れた呻き声しか上げられなかったんでしょう。その状態で、どうやって言葉を紡げるんです。きっと、その言葉は幻聴ですよ。介護疲れが生み出した、都合のいい幻聴です」
 貴方はお父様から解放されたかっただけですよ。
 変わり果てた父親を殺す、理由が欲しかっただけですよ。
 茜は確信を持って、そう言った。
「帰りなよ」
 老人は無表情のままで、坂道を指さした。
「また、風に巻かれるぞ」
「……そうさせていただきます」
 茜は老人に背を向けると、夕焼けに炙られる道路を下り始めた。もう、二度とここには来ないだろう。そう思った。
 風が吹いていた。茜を押し返そうとするように、強く。
 がしゃがしゃ、がしゃがしゃと葉が揺れる。その音が、やはりあの巨大な髑髏を想起させる。空襲による死。刃物で喉を裂かれたことによる死。この地は多くの非業の死があるので、あの骸骨が起き上がる理由は揃っている。
 がしゃどくろは、今度は私を殺すのか。
 祖母を取り殺した時と、同じように。
「当麻茜ちゃん」
 名前を呼ばれて、彼女は振り向いた。老人が大口を開けて笑っている。愉快そうに笑っている。不気味な哄笑だった。刃のように鋭い鳥肌が、背筋を切り裂いていく。早く、この場から逃げなくては。何故なら。
 私は老人に、自分の名前など教えていない。
 彼は大きな声で笑いながら、言った。
「安心しなよ。おらは茜ちゃんを殺さんよ。茜ちゃんのお婆ちゃんと話して、そう思ったから」
 祖母と話した。
 死んだ祖母と、話したのか。
「言っただろう、このたたら場は死を呼ぶってよ」
 心臓に水が染みたように重くなる。十一月の冷気が、闇に馴染んでいく。じきに夜が来る。早く帰らなければ。
「死のうとする奴だけじゃない。死んだ奴も来るのさ。一年前、茜ちゃんのお婆ちゃんも来たよ」
 がしゃがしゃと、葉っぱが鳴っている。大きな骸骨が、歯を鳴らしている。
 祖母を取り殺した、骸骨。
 いや、本当は。
 天国に行ったのよ。
 天国はね、とてもいいところよ。
 母の声が聞こえる。薄っぺらい言葉だ。それもそうだろう。あれは方便だから。
 そうでも言わなきゃ、彼女はやっていけなかったはずだ。
 何故なら。
 茜は今度こそ走り出した。早くこの場から逃げようと思った。
「お婆ちゃん、苦しかったってよ。発作が起きてんのに、誰も助けてくれねえんだから」
 老人の笑い声が聞こえてくる。がしゃがしゃという響きもついてくる。
「なあ、茜ちゃん」
 耳を塞ごうとした。その時、足を罅に取られた。受け身を取ることも出来ず、転がる。全身を擦りむき、血の匂いがする。
 茜は立ち上がりながら、そっと後ろを見た。
 老人はずっと遠くにいた。彼はずっと笑っている。
 それなのに、耳元で声が聞こえた。
 しわがれた、女の声だった

「どうして、お母さんと黙って見てるだけだったの」

 ゆっくりと、振り返る。
 大きな骸骨がいた。しかし、それには皮も目玉もほつれた白髪もあった。
 死ぬ間際の、祖母の姿だった。
 ああ、私とあの老人は、やはり似ている。彼は女神のせいにして、私は怪異のせいにした。
 全ては、方便だった。

 がしゃどくろの方便だった。

投稿者:シモゴエ(Twitter/ブログ

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